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男同士の絆とは? [中学時代]

幼なじみRくんの思い出-2

小学時代からの幼なじみのR君
今頃どうしているのだろう?
彼は、育ちの良い、
適度にスポーツマンで、
適度に頭がいい友達だった。

彼の家庭はいわゆる当時の中流家庭だった。
私の家庭よりも遙かに裕福だった。
しかし彼は無駄遣いなどは決してしなかった。
私が一日に5円か10円の小遣いしか持っていないとき、
彼もそれぐらいしか持っていなかった。

ある時、彼はお金を10円私のところに借りに来た。
彼はお金の貸し借りなど決してしない子だった。
そのときが最初で最後だった。

消しゴムだったか?忘れて困ったので
私のところに来たのだ。
それ以後、私は3ヶ月もたっていただろうか?
完全に忘れてしまっていた。

ところが不意に、

”おいっ!”
”10円借りてたやろ!”

私は
”えっ?”

と返事に面食らって、
すぐには思い出せなかった。
彼は、たった十円でもしっかり覚えてくれていたのだ。

彼の律儀で誠実な態度に、
今思い出しても感心する。
裕福な家庭の子の中には、
たかが10円くらいという感覚があって、
以外と気にもとめない子が普通だったからだ。

かれとの思い出で-2

思い出すのは中2の
学年全体のマラソン大会での事だった。
号砲一発、550人全員一斉に出発した。
結構ながい距離だった。5~6k位あっただろうか?

私は少々オーバーペース気味で
飛び出していた。
後2k位のところで
息切れがしてとぼとぼと歩き出した。

するとしばらくすると
彼が後ろから駆け寄ってきた。

「もう少しや!頑張ろう!」

と声かけてきた。

「あっ~!」

と合図しながら、
私も思わず走り出していた。

後は一直線、
彼と共にゴールに駆け込んでいた。

ゴール後、視線を合わすと
すぐに私は

「ありがとう!」

と言い、
彼と肩を組んでいた。

それだけのことだったが、
言いしれぬ連帯感、充実感と共に、
こみ上げる熱いものを彼に感じていた。

その後成績発表があった。
彼は当時別のクラスだった。
私の校内マラソン大会成績はクラスではトップだった。
クラス別対抗ではクラスに対して大きな貢献をして、
クラスのみんなに拍手喝采の歓迎を受けた。

その時、
脳裏にはあの時の彼の姿が映り、
R君にひしひしと友情を感じ、
胸に熱いものが流れた。


少年時代の故郷-7 [中学時代]

ある時は教室で
友人と二人で話をしていると、
友人が

「オイ!」

おまえをTが見てる!と教えた。

ふと視線を上げると
5~6メートル向こうのTと
ぴったり視線があった。
顔が熱く火照り、胸がドキドキした。

どうしようもない一瞬だ。


ハイキングの朝

ある冬時、同級生達と
高良山を抜けて未納山へとハイキングに出かけた。
そこには、初恋のあの子も居た。
雪がほんのり積もっていた。

私は不意にいたずら心が沸き上がってきた。
故意に(恋?に)松の木の
上方めがけて雪を投げつけた。

松の木の下にいた彼女は慌てて頭を両手で覆いながら
「キャーッ」と言いながら木の下を離れた。

更に木の枝に積もった雪が
パラパラと落ちてきた雪を払いのけ、
「コラッー!」
と言いながらも、
白い歯を見せながら、
嬉しそうに
追いかけて来て雪を投げ返してきた。

ぶつけられ、
”飛び散る雪”の冷たさにも
「温かい快感」をどこからともなく感じていた。
胸高鳴る思い出だ。

次の年の2月末、家庭の事情で
多くの同級生達に見送られながら
今のJRの久留米駅に居た。

私は、こんなに多くの友人達が
見送りに来てくれるとは夢にも思っていなかった。
感激で涙があふれるのを押さえきれなかった。

手を振るあの子の面影がふと脳裏に浮かぶことがある。
今の妻には、プラトニックとはいうものの申し訳ない1幕である。


少年時代の故郷-6 [中学時代]




中2の時の甘い初恋

あの子は夕暮れ時になると
校舎の柔道部の部室を遠くから
友人と二人で眺めに来ていた。

ある時、
道場の中から外を見ると、

ふと彼女と目が合った!
慌てて目を背けたときのドキドキ感!
今でもおもいだすとムネがキュンとして忘れられない。


中2の時の新人戦

柔道部の市内の新人戦の大会が有った。
初めての格闘の一瞬だったが
数分前からドキドキと心臓の高まり、
足はがくがく、ぶるぶると震えが止まらない。

普通の臆病な震えとは違うようだ。
止めようと思っても止まらないのだ。
こわさは無い。

相対して正座から立てっ!の号令と共に
相対し2m幅くらいまで歩み寄った。
相手は15センチは背が高い。
震えは止まらない。

その時初めて知った。
これがよくいわれている”武者震い”なのか!?と。

「はじめっ!」

わからないまま、
私は今だっと背負いに入った。

”すっ”と軽くなった。

そして相手に巻き込まれるように、
倒れ込んだ。

「一本!!」

の声が有ったようだ。

しかし?

聞こえていない私は、
寝技に入って組んず解れつの体勢になっていた。
審判は肩をたたいて「立てっ」の宣告をした。

試合は終わっていたのだ!!

二本の旗は私にあがった。

勝っていたのだ。
頭が真っ白なままの勝利だった。

ある時は教室で
友人と二人で話をしていると、
友人が「オイ!」
おまえをTが見てる!と教えた。

ふと視線を上げると
5~6メートル向こうのTと

ぴったり視線があった。
顔面は熱く火照り、
胸がドキドキした。

どうしようもない一瞬だ。(続く)


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関西の地での青春-中学の頃-2 [中学時代]

1.中3になって

いろいろ苦労はしたものの
何とか公立の高校に入学し、
新しい一歩を踏み出した。

中3の時印象に残ったことは
強いていえば、社会科の教師が特異な存在であった。
社会の授業は、それまでと違って
政経の時間に、日本国憲法を学ぶために
いきなり、明治憲法と日本国憲法の違いを
みんな各自で図書館に行って調べてきなさいと
指示された。

要するにレポート作成を命じられたのである。
国家の主権を持っているのは?とか
欽定憲法とは?とか
民主主義国家とは?とか
いろいろなことを印象深く学んだのは
このときだったようだ。

また、新聞もこのとき初めて、一面トップから読むことを
みんなに指示された。

このときから私は新聞は一面から読むようになった。
それまでは、スポーツ欄しか読んだことがなかった。
子供の意識改革の時代だったのだろうか?
今頃この先生はいかがされていることだろう?

この間、何とか、高校受験をクリアし、
新たな高校生活が始まった。(次回へ続く)

中3の波乱の生活をステップとして、
高校時代の青春を謳歌することになるのである。
中学時代は柔道をしたが、
高校はバスケットをすることにした。
バスケットも初めての体験であったが、
厳しい練習が待っていた。


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関西の地での青春 中学の頃-1 [中学時代]


大阪城の春

1.なれない土地

この時期は
この地にくるとすぐに
高校受験直前であった。
まだなれない地であったため、
関西弁になれず、
満たされない時代であった。

2.とけ込めない関西弁

中3の授業は
教師の関西弁が妙に分かりづらかった。

九州弁はシンプルであまりアクセントや音の抑揚に
こだわらないが、
関西弁は結構それらにうるさいのである。


3.父の思いで

又、父が終戦後、
フィリッピンから帰国して以来
今でいうPTSD(戦争後遺症)傷害?
酒浸り、女遊びに耽り……。

母の話では、父は
家では夜いつ目が覚めても起きているようだ、と申していた。
たぶんフィリッピンのジャングルで、
いつ襲撃を受けるか分からない中で寝ていたため、
神経がピリピリしていた癖が
抜け切れていなかったためだろう。

戦争はあらゆる意味で本人だけでなく家族に
戦争が終わっても迷惑をかけていると思う。
酒浸りの理由はほかにもある。
終戦後戦地から帰ってきてみると、
前に働いていた職場で、みんなから大きく立ち後れていた、
という屈辱的事実もあった。
悔しさがやけくそにつながっていた。
あらゆる意味で底なしの泥沼に引き込まれていた。

とにかく、理由はともあれ
家庭を維持していく上で限界に来ていたようである。

家庭ががたがたしていて、
落ち着いて勉強をするような環境にはなかった。
子供達が中間テストや期末テスト直前であってもお構いなしであった。
酔っぱらって罵声が飛び交うのである。

それでも父や母は戦前、戦時中にも関わらず、
結構高学歴であったため、子供たちも高等学校までは
義務教育という感覚であった。

何か、感覚的にちぐはぐな家庭であった。
父は、自分が何不自由なく育ったためか、
子供達の衣食住に対する貧しさに対して全く無頓着であった。
自分の酒や酒の肴に対してだけはぜいたくであった。
佐賀の家父長制の強さは有名であった。
そういうことも影響していたかもしれない?

4.心一つに支え合った母姉妹達

そのため、母も子供4人を育てるために必死で働いた。
子供たちもその背中をみて育ったのか、
中学までは、家庭ががたがたの割には
全員優秀な成績を収めていたと思う。

それが子供達の母に対する思いやり、
母が苦しんでいることに対する慰め、
労働の疲れに対する励ましでも合ったのだろう。

姉は中学時代はいつも中間、期末は
三田川や久留米の田舎中学ではあるが
必ず正真正銘の1位を占めていた。
私はそれよりやや劣っていたが
学年で一桁から20位位(学年550人位)を
いったり来たりしていた。
下の兄妹達も私と似たようなものだった。

学業だけでなく、
クラブ活動などもみんな活発に参加し、
学校では、内面とは裏腹に、結構生き生きと振る舞っていた。
赤貧の中で、
家庭崩壊寸前の割にはみんな手を携えて
支え合って生きていたと思っている。

5.中3の修学旅行

3年生の修学旅行は、
本来は楽しい一生の思い出であった筈であるが
ほとんど記憶にない。

そのころの唯一の楽しみは田舎の友人の便りであった。

6.ふるさとより小包

ちょうどそのころ、
田舎の文通しているあの子から
小包が届いた。
私が中3の時書いた、
絵やウサギの石膏、握り拳の銅版画などであった。

私の描いた絵や工作物を大事にしていてくれて
わざわざ郵送してくれたことが無性にうれしく、
又、彼女と彼女のいる我が古里が懐かしく思われた。


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