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痛ましい出来事-1 [日記、エッセイ]

悲しい出来事が起こったようです。
ある園児の母親が、二人の子供さんを
刺したというのです。

どれくらい内面の観察が、真実に近い情報かは判りません。
が、母親は外国人で、普段日本語が堪能でなく
その子供も孤立気味と言うことが有る記事でかかれていました。

そう書かれているだけで、
ある程度のそれまでのプロセスと動機が想像はできます。
でも推測であって確定できるものでは有りません。

ただ、結果的にいえることは、
どんなことでも、近視眼的に
極端な行動に出てはならないと言うことなのでしょう。
その結果は悲惨なものです。
その刺し殺されたお子さんの両親にはどんなにわびても、
死を持って償ってしても、一生償いきれないでしょう。
自分にとっても一生禍根として残り、
死ぬまで救われないと思うからです。

行動だけで判断するなら、
その前に無数の順序を踏む必要が有ります。
そこが何故、抜け落ち飛躍した、
短絡的な行動になるのかということです。

まず、どんなときにもまず、耐えうる力を養いたいものです。
その間には少なくともまず、そうなっている現実を
冷静に見つめること、
何がその様なカーッとなるような気持ちをかき立てたのか?

その原因は何なのか?
それに対処するには、どんな対応が必要なのか?
又、もう一度自分の側にそうなる動機や可能性が
無かったのか?

自らを見つめ直す時間的余裕を持ちたいものです。
少しだけ耐えて時間を稼ぐと言うことも必要なのでは?と思います。

又、人間関係を有る程度ならすにはどんな人でも
ある程度の考える時間とコミュニケーション試行錯誤が
必要です。それでも好き嫌いは大人でも出てくるものです。

まして、言葉が違っていればなおさらです。
言葉に堪能になるまでは時間がかかります。
忍耐力が求められます。

行動をするまでは無数の考え方、判断の余地が有ります。
それらのことをまず、しっかり考慮するだけの
余裕が有って欲しいものです。

大人でも動揺したときなど虚が来てしまって、
近視眼になったり、動揺したりすることが有ります。

その様な近視眼的な未熟さは、
誰しも多かれ少なかれ持っているものです。

しかし、永い風雪に耐えて、
自らが言葉やコミュニケーション能力を磨くことによって
「災い転じて福となす」ということわざにもあるように、
その苦難の中で、自らを鍛えることによって、
逆に皆から慕われる存在に転換できる可能性も、
永い時間の中では可能だと思います。


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